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その日は朝から透き通るようによく晴れ風が強かった。三時過ぎには正座をして坊さんが読む法華経を聞いていた。骨を墓に納める納骨の日に読まれたそのお経は、四十九日が過ぎているので百箇日の仏事として行いますとの挨拶に続いて読まれた。
読経が始まり木魚の音が高く鳴り響き、周囲からはすすり泣きが聞こえてきたが不思議に静かで左の窓からは風に揺れてこすれ合う笹の葉の音が繰り返し入ってきた。亡くなるとなればあっけないもので、その人が幸せであろうが不幸であろうが、そんなことには関係なく死はいきなりやってくる。
二人の娘たちを残して亡くなったその人に最後に会ったのはもう二十年くらい前になる。四階の中庭に滝を再現した、それはそれは豪華なホテルの中華レストランで働いていると聞いて会いに行った。この日はよく似合うチャイナドレス姿を見せてもらっただけでなく、料理までご馳走になってしまった。
納骨が終わった後の宴の挨拶で、その人が脳溢血で道ばたに倒れたことを知った。病院に運ばれあふれ出た血を吸い出したもののもう遅かったらしく、呼吸が止まったために人工呼吸器が使われたらしい。
この状態はたしか脳死と呼ばれているはずで、もし移植が行われるのであればこの時点で”死”と判定される。移植はしなかったのでこの時点ではまだ亡くなってはいない、ということになる。
それから必死の看病が続いたもののその甲斐もなく約一週間後に心臓が止まって亡くなった。よく言われる臓器移植は、こんな混乱状態でやることになるわけで、移植を断る家族の気持ちがよく分かるような気がする。
中華料理をごちそうになった後で、その人は自分は腎臓が悪くて疲れやすい体質なので、旦那さんになる人に悪いから結婚しようという気にはなれない、と話していた。今思えば、そんな話になったのは、そのときすでに誰かに求婚されていたからなのかも知れない。
読経が終わった後の坊さんの法話の中に、生老病死の話があった。それは仏教で言う四苦八苦の中の四つの苦のことで、出産の苦しみ、老いる苦しみ、病気による苦しみ、死の苦しみがこれにあたるとされている。
その人は出産の苦しみと、病気の苦しみを味わい、老いる前に亡くなってしまったので老いの苦しみを味わうことも無く、また脳溢血で突然意識を失ったために死の苦しみを味わうことも無かったことになる。
生き続ければ、残りの二つの苦も味わうことになるとはいうものの、やはり生き続けて欲しかった。そう思うのは、人生が足し算や引き算をしたくらいでは求められない、何かを含んでいるからなんだろうと思う。